日本リヒテンシュタイン協会
Japanisch-Liechtensteinische Gesellschaft

 

リヒテンシュタイン侯爵家の歴史

2020年3月30日記
2021年3月22日追記

侯爵家の始まり

 リヒテンシュタイン家は現在でこそリヒテンシュタインのファドゥーツ城に住んでいますが、リヒテンシュタインが発祥の地ではありません。

 リヒテンシュタイン家の祖先はもともとはバイエルン辺境伯のフォーブルク家(Vohburg)に仕えていたようです。この時代はまだ記録が少なく、詳しいことはあまりわかっていないようですが少なくとも12世紀ごろにリヒテンシュタイン家の始祖といわれるフーゴ(Hugo)の名前が確認されています。

 12世紀にフーゴはウィーン郊外のマリア・エンツァースドルフ( Maria Enzersdorf )に城を築きました。ここは地理的にウィーンの防衛にとって重要であったことからフーゴがかなりバーベンベルク家から信頼されていたことがうかがえます。そして自分の城を築くということは独立した領主になるということも意味するので、リヒテンシュタイン家の貴族としての歴史はまさにここから始まっていったともいえます。因みにこのお城は石灰石でできており、白く光っているように見えたことからLiechtenstein(光る石)と呼ばれるようになり、家名の由来になったといわれています。なお現在の正書法のドイツ語で「光る石」と書くとLichtensteinとなりますが、リヒテンシュタイン家及びリヒテンシュタイン侯国はLi”e”chtensteinと表記しますのでご注意ください。

Burg Liechtenstein

ちなみにこのお城は現在でも侯爵家が保有しており見学することができます。ウィーンへお立ち寄りの際は後に紹介する宮殿と合わせて是非ご訪問ください。

侯爵家の発展

侯爵家はバーベンベルク家の家臣として、1246年のハンガリーとの戦いでは司令官を務めるなど重用されていたようです。1278年のマルヒフェルトの戦いによってオーストリアをハプスブルク家が支配するようになると今度はハプスブルク家の重臣として軍司令官、王宮の支配人、近世には外交官などを輩出し、活躍しました。有名な人物としては大砲技術の改革を主導し七年戦争で活躍したヨーゼフ・ウェンツェル一世、ナポレオン戦争に元帥として参加したヨハン一世、ヨーゼフ・シュトラウスがリヒテンシュタイン行進曲をささげたアロイス二世などがいます。 

リヒテンシュタイン家は政治・軍事で重要な役職に就くだけでなく、オーストリア、チェコを中心に多くの土地を持ち莫大な資産家としても名をはせていきます。現在でも侯爵家は資産家として有名ではありますが、ハプスブルク帝国時代の高位貴族として政治・外交・経済に大きな影響力を持っていた時代をしのぶことができるのがウィーンにある二つの宮殿です。

一番左の屋根の青い建物がLiechtenstein Stadtpalais

ウィーンの王宮(Hofburg)の裏手、ブルク劇場のあたりにあるのがこのシティパレス(Stadtpalais)です。ここはヨハン・アダム1世が1705年に立てました。中は見学することができ、当時の貴族の生活を感じることができます。

Gartenpalais Liechtenstein

もう一つが少し北に行った市民劇場(Volksoper)の近くにある 庭園宮(Gartenpalais)。こちらも同じくヨハン・アダム1世が1700年に完成させ、ここは客を迎える迎賓館として利用されていました。こちらも現在まで侯爵家が保有しており、見学を申し込めば中を見ることができます。迎賓館として使われていただけあって美しいフラスコや侯爵家が保有する名画が飾られており、芸術好きには是非お勧めしたい観光スポットでもあります。

侯爵家とリヒテンシュタイン侯国

さて、今見てきたように侯爵家はオーストリアやチェコを中心に活動する一族でした。ではなぜ現在リヒテンシュタインに住んでいるのでしょうか。

侯爵家は自分の領地、そして皇帝から与えられた封土は多く持っていましたが自分の国は持っていませんでした。当時神聖ローマ帝国には議会のような組織として帝国議会があり、ここは自分の国を持つ貴族しか代表権を持っていませんでした。逆に言えば自分の国を持っていなければ高級貴族のリヒテンシュタイン家といえど参加はできないということです。会議に参加したいと考えたヨハン・アダム・アンドレアス侯は1699年にシェーレンベルク男爵領を、1712年にファドゥーツ伯領を購入し、これは時の皇帝カール六世によって1719年にリヒテンシュタイン侯国として認められました。こうしてリヒテンシュタイン侯国は建国されたのです。

現在侯爵が住むファドゥーツ城

こうして国を持ち帝国議会への参加権を得た侯爵ですが、住む場所は変わらずウィーンでした。しかし1918年に第一次大戦が終結しハプスブルク家が皇帝位を追われウィーンで仕えるべき君主がいなくなると、アロイス侯は居をファドゥーツに移し、以後リヒテンシュタイン家はファドゥーツに住むようになります。

ちなみに第二次大戦後までリヒテンシュタインの主な産業は農業しかなく貧しい国でしたが、フランツ・ヨーゼフ二世は技術者や研究者の誘致で工業を発展させ、さらに資産税や商業税の引き下げで企業を誘致し金融業を発展させることで現在の世界有数の富裕国を作り上げました。

こうしてリヒテンシュタイン侯国は現在に至るのです。

参考

  • Wagner, Harald (1995): Die Regierenden Fürsten von Liechtenstein, Triesen :Framk P.van Eck Verlaganstalt.
  • 植田健嗣(1999)『ミニ国家 リヒテンシュタイン侯国』 郁文堂
  • Burg Liechtenstein Der Erbauer der Burg – Hugo von Liechtenstein (108? –  † um 1142) , Burg Liechtenstein , URL:https://www.burgliechtenstein.eu/de/die-burg/hugo-von-liechtenstein.html (abgerufen am 10.3.2021)